織りの技術

鳴かせて一人前

しなやかさと丈夫さを合わせ持つ博多帯の特徴のひとつが、絹鳴りと呼ばれる締める時に絹が擦れて鳴る「キュッキュッ」という独特の音です。身支度をする時にこの音を聞いて清々しい気持ちになる、気が引き締まるというお声もよくいただきます。「博多織の職人は鳴かせてこそ一人前」という言葉が受け継がれています。

仕掛けが8割

仕掛けとは糸を織機にかける準備の工程であり、博多織の製造工程の中で最も集中力を要します。帯によっては15000本以上にもなる経糸を1本ずつ決められた順番で、1mmにも満たない非常に小さな穴に通していきます。1本でも並びが狂うと図柄や手触りが崩れてしまうので、とても神経を使います。西村織物ではデザインの魅力を最大限に引き出す為、柄が変わる度に仕掛けを変えています。1日に仕掛けられるのは1000本程度。つまり、1つの帯の仕掛けに長ければ10日以上かかります。帯の製造は、完成した帯の華やかさからは想像もつかないような地道な作業の繰り返しなのです。

鳴かせて一人前

しなやかさと丈夫さを合わせ持つ博多帯の特徴のひとつが、絹鳴りと呼ばれる締める時に絹が擦れて鳴る「キュッキュッ」という独特の音です。身支度をする時にこの音を聞いて清々しい気持ちになる、気が引き締まるというお声もよくいただきます。「博多織の職人は鳴かせてこそ一人前」という言葉が受け継がれています。

仕掛けが8割

仕掛けとは糸を織機にかける準備の工程であり、博多織の製造工程の中で最も集中力を要します。帯によっては15000本以上にもなる経糸を1本ずつ決められた順番で、1mmにも満たない非常に小さな穴に通していきます。1本でも並びが狂うと図柄や手触りが崩れてしまうので、とても神経を使います。西村織物ではデザインの魅力を最大限に引き出す為、柄が変わる度に仕掛けを変えています。1日に仕掛けられるのは1000本程度。つまり、1つの帯の仕掛けに長ければ10日以上かかります。帯の製造は、完成した帯の華やかさからは想像もつかないような地道な作業の繰り返しなのです。


様々な顔を持つ博多織

伝統だけでなく
織物の可能性を追究

落語界では真打に昇進すると西村織物の帯を締めて、高座にあがります。また、相撲界では十両以上にあがると博多織をしめることが許されます。最近ではその生地の特性を生かした小物などの新しい分野にも博多織は使われています。伝統だけでなく新しい織物の可能性も西村織物は追究しています。

※力士の番付は、横綱、大関、関脇、小結、前頭(平幕)、十両、幕下、三段目、序二段、序ノ口の10段階にわかれており、前頭以上は幕内力士と呼ばれます。落語家の階級は、真打、二ツ目、前座、前座見習いの4段階にわかれています。

織りの種類
たくさんある中から、特徴的なものをいくつかご紹介します。
平地
たくさんの経糸に太い緯糸を細かく打ち込んで織りなす、博多を代表する織組織。
間道
献上模様以外の縞柄。縞の中に繻子織で模様を織り出します。
佐賀錦
金銀の箔や漆を置いた和紙を経糸に使います。華やかながら上品な帯に仕上がります。
風通
経二重、緯二重で織る組織。柔らかくかつしっかりとした地風が特徴。
紗(しゃ)
紗は格子状に透かし目を作りながら織っていく、夏用の帯。
粗紗(あらしゃ)
複雑な織りで幾何学柄の透かし目を作る、夏用の帯。
本袋
帯を袋状に織る技術。表・裏の生地を一度に織るため非常に多くの経糸を使用します。
歴史背景
献上柄に込められた願い

博多織を代表する柄である、献上柄。江戸時代、筑前福岡藩の初代藩主によって博多織の反物や帯が江戸幕府へ献上されたことからこの名がつきました。幕府へ献上する際には、古代中国の思想である五行説により「木・火・土・金・水」を表す5色の帯が織られました。この思想は儒教の五常と呼ばれる5つの道徳に受け継がれ、現在は、青(仁)、赤(礼)、黄(信)、紫(徳)、紺(知)を五色献上と呼んでいます。

仏具をモチーフにした独特の図柄は、鎌倉時代に博多織の原点となる織物を中国・宋から持ち帰った満田弥三右衛門が、共に宋へ渡った臨済宗の僧・聖一国師の助言を受けて考案したとされています。

縞のモチーフ 家内安全、子孫繁栄の願い
中子持縞
(親子縞)

「親」を表す太い線の間に「子」を表す細い線があり、親が子を包み込み守っている様子を表します。(家内安全)

両子持縞
(孝行縞)

中子持縞と逆の配置で、親から子へ広がっていく様子を表します。(子孫繁栄)

仏具のモチーフ 魔除け、厄除けの願い
独鈷

煩悩を打ち砕き、菩薩心を表すための密教法具

華皿

仏の供養をするときに花を散布するための器

上:華皿、下:独鈷

博多織の起源と歴史
鎌倉時代
1235年、博多商人・満田弥三右衛門と承天禅寺の聖一国師とが博多より中国・宋へ渡りました。宋で過ごした6年間、弥三右衛門は織物、朱、箔、素麺、麝香丸(じゃこうがん)の5つの製法を習得、聖一国師は禅の修行に励みました。1241年に博多へ帰還。弥三右衛門はこれらの技術を人々に伝え、織物技法だけは家伝としました。その250年後、弥三右衛門の子孫・満田彦三郎が中国・広東へ渡って織物の技法を研究し更に改良工夫をした織物が、地名をとって「博多織」と名付けられたそうです。
江戸時代
筑前黒田藩の初代藩主となった黒田長政は、徳川幕府への献上品に博多織を選び、毎年3月に帯地十筋と生絹(着尺)三疋を献上しました。これにより博多織は全国に知られることとなります。江戸時代は黒田藩の統制の下に十二軒の織屋にのみ生産が許されていました。
明治時代
明治13年、博多織が流行する一方、質の悪い商品が出回るようになり、品質保持のために関係者が集まって博多織会社(現:博多織工業組合)を設立しました。明治18年には、文明開化により欧米からジャガード織を導入。紋紙を使って図柄を自動的に織り上げられるようになり、表現の幅が大きく広がりました。
大正時代
県や市から皇室への献上品が数多く製造され、壮大華麗な作品が多く残る時代。第一次世界大戦の物資不足の中でも、博多織の売り上げは衰えることがありませんでした。
昭和時代
昭和11年、国会議事堂の両院協議室の壁布に博多織が採用されました。博多織の最高技術を結集し、25色の糸で織られた唐草模様。昭和後期、国会議事堂のリニューアルに際して技術保護のため一部が博多に持ち帰られ、現在は弊社ギャラリー博多織献上館にて保管しています。昭和14年に第二次世界大戦が勃発すると、生活全てが一変し、博多織も生産を続けることができなくなりました。戦争が終わり、昭和30年頃より再び勢いを取り戻した博多織は、昭和51年に通産大臣より伝統工芸品に指定されました。
平成時代
平成23年、従来の帯地に加えて、博多産地で昔製造されていた着尺地が伝統的工芸品に指定されました。圧倒的な生産量を誇る八寸名古屋帯に加え、ネクタイや小物などの生地にも博多織が使われるようになっています。

参考『博多織史』博多織工業組合発行、2008年

西村織物の歴史

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博多織献上館 にしむら

〒818-0061 福岡県筑紫野市紫7-3-5

TEL | 092-922-7128

開館時間|10:00~17:00(ご予約制)

休館日|日曜日、 祝日、第2、4土曜日

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