博多織について
たくさんの経糸を使う博多織
締め心地の良さが魅力です
その起源は鎌倉時代
江戸時代には
全国区の存在に
博多織は、鎌倉時代に満田彌三右衛門が最先端技術を学ぶために宋へと渡ったことにはじまります。15世紀後半、今度は先祖の夢を受け継いだ満田彦三郎が明へと渡ることに。帰国後、現在の伝統的博多織の基礎となるものをつくりました。
博多織と聞いて、誰もが思い浮かべる献上柄は江戸時代に生まれたもの。黒田藩から江戸幕府への献上品として贈られ、博多織が全国に広まるきっかけとなりました。
「仕掛けが8割」と言われる
経糸の多さが特長
博多織の特長はなんといっても経糸の多さです。絹糸を織機にかける準備工程の「仕掛け」では、数千本~1万5000本以上にもなる経糸を1本ずつ、1mmにも満たない小さな穴に通していきます。1本でも順番が狂うと図柄や手触りが崩れてしまうので、とても神経を使います。1日に仕掛けられるのは1,000本程度。つまり、1つの帯の仕掛けに長ければ10日以上かかるため、博多織の世界には「仕掛けが8割」という言葉があるほどです。華やかな帯の中にはこの地道な作業が隠れています。
高品質の帯だけが奏でる
キュッという絹鳴りの音
その経糸の多さから、丈夫でしなやかな張りと厚みがある博多織の帯。一度締めたら緩まないので、着物を着る機会の多い人々に昔から支持されています。また帯を締める時には「キュッキュッ」という独特の音が出ます。これは絹鳴りと呼ばれる絹が擦れる音です。
心地よい絹鳴りは高品質の証なので、「博多織の職人は鳴かせてこそ一人前」と言われています。ちなみに落語界では真打に昇進すると西村織物の帯「鬼献上」を締めて高座にあがるのが定番。また、相撲界では幕内以上になると博多織を締めることが許されます。
織りの種類
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平地
たくさんの経糸に太い緯糸を細かく打ち込んで織りなす、博多を代表する織組織。
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間道
献上模様以外の縞柄。縞の中に繻子織で模様を織り出します。
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佐賀錦
金銀の箔や漆を置いた和紙を経糸に使います。華やかながら上品な帯に仕上がります。
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風通
経二重、緯二重で織る組織。柔らかくかつしっかりとした地風が特徴。
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紗しゃ
紗は格子状に透かし目を作りながら織っていく、夏用の帯。
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粗紗あらしゃ
複雑な織りで幾何学柄の透かし目を作る、夏用の帯。
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本袋
帯を袋状に織る技術。表・裏の生地を一度に織るため非常に多くの経糸を使用します。
献上柄について
仏具をモチーフにした独特の図柄は、鎌倉時代に中国・宋から博多織のもととなる織物を持ち帰った満田弥三右衛門が、共に宋へ渡った臨済宗の僧・聖一国師の助言を受けて考案したものとされています。
この帯を筑前黒田藩の初代藩主黒田長政が江戸時代に幕府へ献上したことで博多織は広く知られるようになり、その図柄には献上柄という名がつきました。
また、江戸幕府に献上した帯は、古代中国の思想である五行説により「木・火・土・金・水」を表す5つの色で織られました。この思想は儒教の五常という道徳に受け継がれ、現在は、青(仁)、赤(礼)、黄(信)、紫(徳)、紺(知)を五色献上と呼んでいます。
縞のモチーフ家内安全、子孫繁栄の願い
- 中子持縞(親子縞)
「親」を表す太い線の間に「子」を表す細い線があり、
親が子を包み込み守る様子を表します。(家内安全)- 両子持縞(孝行縞)
中子持縞と逆の配置で、
親から子へ広がっていく様子を表します。(子孫繁栄)
仏具のモチーフ魔除け、厄除けの願い
- 独鈷
煩悩を打ち砕き、菩薩心を表すための密教法具
- 華皿
仏の供養をするときに花を散布するための器
博多織の帯ができるまで
博多織のひとつの帯が織り上がるまで、図案から仕上げまで数多くの手間と長い時間を要します。
西村織物では企画・デザインから製造、そして営業まで全行程を自社で完結。
分業制が多い織物の世界ですが、すべてを自分たちの手で行うことで、最高品質かつ誠実なものづくりを続けています。
1意匠デザイン
様々な分野からインスピレーションをもらいながら、伝統的な紋様はもちろん新しく斬新なデザインも日々考案しています。テーマが決まると、まずは写真や画集などを参考に図案を描き、コンピュータの専用ソフトで意匠と織物設計を行います。
2糸染め
絹糸の質は織物の質に直結します。良い糸は白度が高くて光沢があり、節が少なくまっすぐで織りやすい。そのため、締めやすく美しい帯が完成します。西村織物ではメインで使用する糸として、ブラジルのブラタク社の世界最高の絹糸を入手。届いた糸は自社工房で職人の手仕事にて染色します。オリジナルで作り出す色は1,000色以上。細かく調整しながら染め上げます。
3糸繰り
染め上げた糸はカセと呼ばれる輪っか状になっています。これをほぐしながら糸枠に巻きとっていくのが糸繰りの作業です。糸繰りに使う円形の道具は、その形状から「ごこう(御光・後光)」と呼ばれます。
4整経
1本の帯を作るのに7,000~15,000本もの経糸を使う博多織。整経の工程で帯に必要な経糸のすべてを整えます。何百もの糸枠を順番に並べ、そこから引いた糸を1本1本穴に通し、大きなドラムに巻くという非常に繊細な作業です。長いものでは長さが150m以上にもなります。ドラムに巻いた糸は再度、織機にセットできるサイズの巻き軸にもう1度巻き取ります。
5仕掛け
織機に経糸を掛ける工程です。数千本の経糸を、正確な配置で1本ずつ小さな穴に通していく緻密な作業です。指先の感覚を研ぎ澄ませ、細くて切れやすい絹糸を丁寧に仕掛けていきます。博多織は「仕掛けが8割」とも言われ、1つの帯の仕掛けに10日以上を要することもあります。
6製織
仕掛けた経糸を複雑に上下させ、緯糸を打ち込むことで図柄を織り出します。織機1~2台に職人1人がつき、糸の張り具合や織り目の凹凸を確かめながら慎重かつ丁寧に織り進めていきます。気温や湿度によっても微妙な調整が必要な織機。美しい風合いを出すために、ここでも職人の技量が問われます。
7仕上げ
汚れやキズがないか、サイズや重さに間違いがないか、一つひとつ丁寧に検品します。最後に博多織工業組合発行の証紙や品質表示のタグを付け、みなさんのお手元に届く帯の完成です。
博多織の起源と歴史
- 鎌倉時代
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1235年、博多商人・満田弥三右衛門と禅僧の聖一国師が博多より中国・宋へ渡りました。宋で過ごした6年間、弥三右衛門は織物、朱、箔、素麺、麝香丸(じゃこうがん)の5つの製法を習得、聖一国師は禅の修行に励みました。1241年、博多へ帰還した弥三右衛門はこれらの技術を人々に伝え、織物技法だけは家伝としたそうです。その250年後、今度は弥三右衛門の子孫・満田彦三郎が中国・広東へ渡わたり、最新の織物の技法を研究。さらに改良と工夫を重ねて完成した織物に、地名をとって「博多織」と名付けました。
- 江戸時代
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筑前黒田藩の初代藩主となった黒田長政は、徳川幕府への献上品に博多織を選び、毎年3月に帯地十筋と生絹(着尺)三疋を献上していました。これにより博多織は全国にその名と締め心地の良さを知られることとなります。江戸時代の博多織は黒田藩の統制の下におかれ、12軒の織屋にのみに生産が許されていました。
- 明治時代
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明治13年、博多織が流行する一方、質の悪い商品が出回るようになり、品質保持のために関係者が集まって博多織会社を設立しました。明治18年には、文明開化とともに欧米からジャガード織を導入。紋紙を使って図柄を自動的に織れるようになり、表現の幅が大きく広がりました。
- 大正時代
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県や市などの自治体が皇室への献上品を数多く製造したことにより、壮大華麗な作品が多く残る時代です。第一次世界大戦の物資不足の中でも、博多織の売り上げは衰えることがありませんでした。
- 昭和時代
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昭和11年、国会議事堂の両院協議室の壁布に博多織が採用されました。博多織の最高技術を結集し、25色の糸で織られた唐草模様です。昭和後期、国会議事堂のリニューアルに際して技術保護のため一部が博多に持ち帰られ、現在は西村織物で保管しています。昭和14年、第二次世界大戦が勃発すると、生活のすべてが一変し、博多織も生産を続けることができなくなりました。戦争が終わり、昭和30年頃より再び勢いを取り戻した博多織。昭和51年に通産大臣より伝統工芸品に指定されました。
- 平成時代
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平成23年、従来の帯地に加えて、博多産地で昔製造されていた着尺地が伝統的工芸品に指定されました。圧倒的な生産量を誇る八寸名古屋帯に加え、ネクタイや小物などの生地にも博多織が使われるようになっています。
- 令和時代
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和装の帯としてはもちろんのこと外国人向けのお土産や建築素材、アートとしてなど、幅広い分野で博多織が求められるように。多様な需要に応えながら、博多織の歴史を現在に繋いでいます。