西村織物について
鎌倉時代、中国(南宋)へ渡った商人・満田弥三右衛門が考案し、その子孫が改良工夫して博多に広めたとされる博多織。この帯を筑前黒田藩の初代藩主・黒田長政が江戸時代に幕府に献上したことで博多織が広く知られるようになり、その図柄には献上柄という名がつきました。
- 経糸を多く使用するため、柔らかくてコシのある質実剛健な風合いになります。
- 博多織を代表する献上柄には、厄除け、子孫繁栄、家内安全の願いが込められています。
- 糸の密度が高いため、締める時にキュッキュッという「絹鳴り」と呼ばれる独特の音色を楽しんでいただけます。
ごあいさつ
ごあいさつ
博多織を代々家業とする家に生まれ育ち、工場の機音を聞きながら育った私にとって博多織は自分の人生そのものであり、一生をかけて追究していく答えのない問いでもあります。江戸時代に創業した祖先の思い、ここ二日市の地に工場を根差した祖父の思い、一緒に働いてくれる社員の思い、たくさんの思いの詰まったこの西村織物を、少しでも長く続けていくことが自分の使命だと思っております。博多織最古の織元として、200周年を社員と笑顔で迎えられるように、先人からの知恵と若手の機動力を生かし、全力で向かっていく所存です。
六代目 西村 聡一郎
天正5年 (1577) | 西村家祖先 与四右衛門が長崎より博多に来る |
天正15年 (1587) | 西村増右衛門道哲 博多の町割りに参画 |
文久元年 (1861) | 織屋初代 西村儀平が福岡市博多区にて博多織製造を始める |
明治13年 (1880) | 博多織会社が結成され、2代目西村清助が運営に参加 |
大正期 | 3代目西村清次郎、有限会社西村織物を設立。相撲界とのつながりを深める |
昭和16年 (1941) | 大東亜戦争勃発。奢侈令により休業 |
昭和20年 (1945) | 大東亜戦争。6月19日の福岡大空襲で工場、会社、自宅の全てを焼失 |
昭和27年 (1952) | 株式会社西村織物工場に改組 徴兵から帰還した4代目西村政太郎が社長就任 |
昭和32年 (1957) | 大橋工場を新設し、手織から機械織りに移行 西村織物株式会社に社名変更 |
昭和42年 (1967) | 大橋工場を閉鎖し、筑紫野町に本社工場を設立 |
昭和57年 (1982) | 紋織物製造に着手 5代目西村悦夫 社長就任 |
平成4年 (1992) | 本社所在地を筑紫野市へ移転 |
平成19年 (2007) | 本社内にギャラリー博多織献上館にしむらを新設 |
平成23年(2011) | 河角尚 社長就任 |
平成27年 (2015) | 6代目西村聡一郎 社長就任 |
西村家祖先 西村増右衛門時代の糸割符一覧
大正時代の見本帳

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意匠部門(平成9年認定)・製織部門(平成15年認定)
松尾 信好
昭和21年、大分生まれ。集団就職で大阪の製造業を経験し、17歳で西村織物に入社。3年間の修行を経て製織を始め、意匠も自ら学んで手がけるように。50年以上作り続けても、できあがった帯に満足したことはまだ一度もないと言う。夏物の「紗」「羅」を得意とする。インタビューを読む
製織部門(平成20年認定)
作本 義一
昭和42年、佐賀生まれ。父はイカ漁師。京都で帯の卸業に従事した後、22歳で西村織物に入社。子どもの頃から機械いじりが好きで、浜辺に流れ着いたテレビなどを解体していた。織機は現在製造中止のものが多いため、工場長作本のきめ細やかな修理、メンテナンスが欠かせない。インタビューを読む
意匠部門(平成22年認定)
一ノ宮 聖四郎
昭和49年、福岡生まれ。筑陽学園のデザイン科を卒業し18歳で博多織の世界へ。織元で製織業務も経験し、デザイン、意匠、織物設計を手がける。2016年、西村織物に入社。多種多様なモチーフを使った独創的なデザインと緻密な織物設計で西村織物のものづくりを牽引している。雅号「双鷹(そうよう)」。 インタビューを読む
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