西村織物の歴史
戦国時代|天正十五年(1587年)
博多商人 西村増右衛門
長崎の豪族であった西村与四右衛門は、天正五年(1577年)に領土拡大の戦いを避けて長崎より博多に移り住みました。度重なる合戦で荒廃していた博多の地では、豊臣秀吉による町割りが行われます。天正15年(1587年)西村増右衛門道哲は時の豪商 神屋宗湛を助けてこれに参画し、朱印状などの交易の権利を授けられます。ここに西村家の生糸貿易商人としての歴史が始まります。このとき、西村家は豊臣秀吉より家紋を授かりました。それが現在のロゴマークとなっております。
江戸時代│文久元年(1861年)
西村儀平により博多の地に創業
江戸末期、新政府による国内での養蚕奨励に伴い、絹糸の輸入が制限されるようになりました。織屋としての初代、西村儀平は生糸輸入商からの脱皮を図るべく絹織物の技術を学び始め、白水長左衛門に弟子入り、文久元年(1861)に西村織物を創業します。
明治〜昭和初期
相撲界での活躍
政治問題や物価の高騰など、様々な社会不安が世の中を覆った明治初期、粗悪品が出回り博多織は著しく社会の信用を失います。この事件を受け、博多織の品質を保つために博多織会社が結成されたのが明治13年。2代目西村清吉は指導的立場で参画しました。その後博多織会社は解散。3代目西村清次郎は力士の化粧回しや締め込みなどを製造し、相撲界との強い繋がりを築いていきます。硬く結ぶことができて肌触りの良い博多織の化粧回しは評判がよく、博多の地でも大相撲が度々開催されました。
昭和中期〜後期
焼野原からの織屋再興
太平洋戦争中の昭和17年、贅沢を禁じる奢侈令が発令され、西村織物も操業停止を余儀なくされます。4代目政太郎は太平洋戦争の徴兵を受け、出征。昭和20年6月19日の福岡大空襲にて自宅、工場、会社を全て焼失します。戦後、政太郎が帰還した昭和23年、博多織製造を福岡市本庄町天神にて再開。焼野原になった博多の街で手織の織機で、伊達締めを織ることから西村織物の再興が始まります。
その後、昭和32年に手織りから機械織りに移行。昭和36年に西村織物株式会社に社名変更するなど、時代とともにその規模を拡大。現在の本社である筑紫野市の工場には最盛期で100名を超える職人さんが働いていました。昭和49年博多織製造はピークを迎えます、織屋の軒数も200軒を超え、福岡を代表する産業でした。その後昭和57年に5代目悦夫が社長就任。従来の伝統的な平地に加え、紋地の織物の開発をし、呉服業界が斜陽産業となってからも、高品質なものづくりを確立します。
平成〜令和〜現在
多様化に対応し、
織物の可能性を追求する
ニーズの減退により少ロット多品種という厳しい条件の中でも、西村織物は進化を続けています。平成28年に六代目聡一郎が社長就任、従来の伝統的な技術を生かしつつ、織物の可能性を追求しています。制作理念は「絹よ輝け、人よ輝け」。創業200年を視野に入れ、博多織最古の老舗として、世界に通じる織屋となるべく、日々精進を続けています。
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